Gao Forever! ~Preface~ ”育ての親” 故・ 齊藤賀雄さんの思い出 (序)
紙媒体の通信で、2011年から追悼記事として連載を始め、現在も大きな反響のある "Gao Forever!" ~「育ての親」故・齊藤賀雄(さいとうよしお)さんの思い出 を、このWeb版にアップすることにしました。
私の音楽家としての育ての親であり、演奏パートナーであったばかりでなく、いろいろな面で仕事の「相方」であった齊藤賀雄さんは、2010年11月9日に、67歳で病のため旅立たれました。
いつも精力的で元気に動き回っていた彼が、こんなに早くあちらへ逝ってしまったことを、私はなかなか受け入れられず、自分に言い聞かせるように始めた連載でしたが、たくさんの方から慰めとお励ましの言葉を頂き、これを綴ることが、私にとっても大きな意味のあること、つまり悲しみを癒す作業となっていることにも、気づきました。
彼がフルーティストとして生きたことについては、とても私だけでは語りつくせませんが、私の視点から、彼の姿をお伝えすることは、やはり意義深いことに思えるのです。「Gaoさん」を知らない若い世代の方にも、何か心に響くところがあるような気がして、これを読んで心にGaoさんを留めていただけたら、きっと彼も空の上で、あの人懐こい笑顔で喜ぶことでしょう。
Web版での公開を快諾して下さったご家族に、心より御礼申し上げます。
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齊藤賀雄 Yoshio Saitoh, Flutist(1943.5.1~2010.11.9) 兵庫県に育ち、灘高から東京藝術大学へ。吉田雅夫、小泉剛らに師事し、フライブルク(ドイツ南部)に留学。オーレル・ニコレ、マルセル・モイーズらに師事したのち、読売日本交響楽団へ。首席奏者を経て、東京音楽大学教授。音楽大学のほかに、全国各地で後進の指導や、NHK TV「フルートとともに」講師も。
天上の響きを思わせる音の美しさと、知的なひらめきに基づいた明晰な音楽が持ち味であり、プロデューサーとしての側面も評価が高く、楽譜の監修も多数。人間的な温かみのある的確な指導には定評があり、今なお慕い続ける教え子も全国に多い。
--- He was known as "Gao" by his fans and friends, which derives from his first name (Yoshio) in Kanji .
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『ろここ通信』連載 ~Gao Forever!~ (Serialization) (1)~(3)
---My memories of Yoshio Saitoh as a foster parent of my music
(1) Gaoさん逝く…
「ガオ」の愛称で親しまれた齊藤賀雄さん(元読売日本交響楽団フルート奏者、元東京音楽大学教授)が、こんなに早く旅立たれるとは、想定外中の想定外だった。木管室内楽の編曲のできる人を探しているということで、新宿で初めてお会いしてから20年あまり。深いご縁に導かれたとしか思えない、良いおつきあいが続き、私にとっては、彼は単なる笛吹きではなく、名プロデューサーであり、成長の機会を次々と与えてくれた、まさに「育ての親」であった。
私は実はフルートを持っているので、彼の弟子だと思っている方もいられるようだが、彼の前で吹いたことは一度もない(絶対に吹かないからねッ!と宣言した。)。室内楽グループではあちこち演奏旅行に出かけ、レパートリーがたまるまでは、本当に寝食を忘れるほどに書いて書いて書きまくる日々で、何と人使いの荒い人だろうと思ったりもしたが、今となってはこれが本当に有り難かったと思う。また、楽譜出版の仕事では、現場のフルーティストならではの勘所を、たくさん教えて頂いた。
常に精力的で、やり手の才人という定評のある人だったが、心根はとても優しく、驚くほど繊細な面を持っていられた。趣味は整理整頓という几帳面さは、のちに熱中していられた、山荘での大工仕事などにも反映していたようだ。私とは、自他ともに認める良いコンビだったから、あらぬ方向に想像を膨らませる方もいたようだが、家族ぐるみのようなお付き合いで、父親や恩師を早く亡くした私には、どこか肉親のような感覚があった。以心伝心というか、仕事先で初めて会った人の印象などは、言わずとも汲み取れた。
2009年の春、体調不良で演奏できないと告げられてから約一年半、復活をひたすら願う思いのかたわら、何があっても受け入れてあげなければいけないという、覚悟に似たものがあった。それが仕事の相方の務めである、と。
(『ろここ通信』82号 2011.8 より)
(2)編曲(アレンジ)に理解の深かった「ガオさん」
編曲という仕事を、ひとことで説明するのはとても難しい。実に様々なあり方が混在しているからだ。世の中には、編曲とは高尚な原曲のまがい物だとか、作曲者の下働きだとかいう認識すらあり、実際そんな世界も編曲として存在する。
しかし、いいアレンジとは、音楽の中核を成す重要な部分であり、音楽家としての器量を問われる大事な仕事である。地道であり、表立って評価されにくいので、損な役回りという面もあるが、理解者に恵まれれば、こんな面白いことはないとも言える。私は、作曲と編曲をあまり区別したり、ランク分けをしたりしてこなかったが、それは、私の行ってきた編曲が、原曲を違った楽器で効果的に演奏するための、いわば「改作(adaptation)」であったからかもしれない。
そんな編曲の、論理的かつスピリチュアルな直感を駆使する世界に、深く理解を寄せてくださったのが、「ガオさん」であった。フルートには、ピアノやヴァイオリンに比べると、圧倒的に楽曲数が少ない。「あの曲を、フルートでやってみたい」という思いに応えるのが、アレンジャーの役目である。
私のように、ピアノを弾き、編曲の譜面を書き、オリジナルの作品もある、となると、「わぁー、便利な人だ。」ということになりがちだが、「ガオさん」率いる読響木管首席メンバーの室内楽グループは、そんな私の役割をよく理解し、労に報いるべく尊重し、大切にしてくれた。それは彼らの人柄と器量、そして何より、音楽家としての誇りゆえのことであったのだろうと理解している。
◆汝が息の 気配を聴きて 添ふ楽に 阿吽の対の 霊ぞ宿れる
そのグリーグの生地ベルゲン(ノルウェー南西部)を、昨年、あえて夜の長い11月末に訪れた。一年の3分の2近くが雨というベルゲン、前泊のオーデンセに続き、またしても風雨に見舞われたが、フィヨルド地形の港町がかもし出す、独特のウエットな情感は、本当に素晴らしく、まさにグリーグ音楽の一つの泉を見たような気がした。氏の奏でるグリーグが闇に溶け込むように、旅の最後の夜が過ぎて行った。
◆音楽の 降りてくる そのアンテナで 語りかけよと 夢で言う君
(3)いつも強気なアドバイス
音楽の世界は、外側から見ると優雅に見えるようだが、実はなかなか厳しい競争社会である。プロの世界はどこもそうだと思うが、一見華やかに見えるせいなのか、思いもかけぬ方角からの鋭い牽制球に「痛ッ!」ということを、しばしば経験する。やられているうちが花、と言えるとしても、打たれ強さを身につけることは必須で、いろいろな知恵で身を護ることも大事だと私は思っている。それでも、悟り足りない私としては、氏に思わず弱音めいたことを口にしたことが何度かあった。
元来、一緒に本番(演奏会)をやるということは、一種運命共同体のようなところがあって、仲間には弱みを見せたくないと強く思うものだ。それで足を引っ張りたくないからである。これはスポーツ選手とちょっと似ていると思うのだが、本番を離れた場で、思わず本音が出てしまった。
そんな時、氏は必ず、あらゆる可能性の中で最も強気なコメントをしてくれた。表情を変えずに、「○○って言ってやればいいじゃないか。」と。あまりの強気ぶりに、私は思わず絶句するのだが、なるほど、そういう立ち位置から見ればいいんだなと思えて、溜飲の下がる思いになった。今思うと、内心不甲斐ない奴だと思っていたのかもしれないが、このパターンは、とても彼らしい優しさと知恵に満ちていると思う。
◆ 心配をかけてすまぬと 綴られし 最後のメール 君らしくあり
昨年に続き、我々のレパートリーであったグリーグゆかりの地、ノルウェーのベルゲンを9月に訪れた。追悼旅行のような去年の旅とは趣が変わり、今年は天気雨のなか、虹も見られ、まだ8時頃まで薄明るい秋の景色を楽しみながら、グリーグの墓前に楽譜(ムラマツオリジナルシリーズNo.35:グリーグの編曲作品を収録,’07年刊)を供え、本場のオーケストラを堪能した。「北欧のショパン」と言われたグリーグの身長は152cmだったという。きっと手も小さかったのだろうなぁと、氏に語りかけながら歩いた。
◆ 追悼はもういい 今は思うまま 旅楽しめと ベルゲンの秋
(『ろここ通信』84号 2012.11 より)
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~Gao Forever!~ (4)~(6)
(4) 仲間かくあるべし
室内楽というのは、大体多くても5人くらいまでの少人数のグループをいう。なので、音楽の性質も、人間関係も自然と緊密になる。音楽家は、たとえオーケストラに所属していても、基本的には個人単位の業種、つまり一匹狼であり、そんな個性豊かな面々の集まりが、長年安定したメンバーで続くことは少ないかもしれない。それぞれの努力と相性、そしてやはり、ある運命的な必然もあると、私は思う。
「ガオさん」から、読売日響首席グループに声をかけていただいた頃、メンバーは私より一回り以上年上の名手揃いだった。ビビッてなるものかと意気込みながらも、現場では圧倒されてしまい、ひたすら恐縮して、なかなか自分の意見が言えなかった。自分が書いた譜面なのに、これではまずい。彼らも徐々にそれに気づき、日常の場では目上の人に対する態度でいいけれど、音楽の場では対等なのだから、遠慮しないでちゃんと意見を言わなきゃだめだ、とリードしてもらいながら、やっと少しずつ自分の役割が果たせるようになってきた。
西洋人が育ててきた楽器、そして音楽。つまり西洋の楽器を用いる音楽の現場では、欧米人のような人間の距離感覚やコミュニケーション・センスが必要であり、いわば「音楽家人格」を内面に持てないと通用しない、ということだ。これは、外国語を話す時の感覚と通じると思うが、それを自然に身につけられるかどうか、というのが大事なところなのだと思う。
しかし、一筋縄ではいかないのが人間関係。もちろん日常では日本人の良さをうまく生かしながら、柔軟に、絶妙な距離を上手に保ちつつ、本当の大人の付き合いを続けてきた彼ら。「ガオさん」は、私には細かいことはほとんど言わず、最初から本当に信頼して、自由に泳がせてくれた。それは生涯の宝だと思っている。
(5)趣味は整理整頓
氏は、本当に几帳面を絵に描いたような人だった。原則として、すべてオリジナルの譜面で演奏していた我々のグループだったが、ペン書きで仕上げたパート譜(その楽器の楽譜だけピックアップしてある、演奏者が現場で使う譜面)は、すべて新たに自分用に複製し、綺麗に製本して、凝った表紙までつけて、持ち歩いていられた。
「趣味は整理整頓」。コンサートの合間に入る、氏の洒脱なトークでは、このフレーズは笑いを取る?ところだが、氏は本当にそういう細々とした作業を楽しんでいたようだ。用意周到さ、整頓することで自分のものにする合理性。少し専門的な話になるが、実は音楽の情報についても、この整理整頓感覚が重要だと私も思っている。一流の演奏家は、一瞬にして音楽の情報を仕分けし、どこをやっつけるべきなのかを判断するものだ。
氏の几帳面さは、本番前の行動にも現れていた。ガムテープを必ず持参し、ダークスーツなど濃い色の衣装に、ペットの毛などがついているのを丁寧に取る。それも、人の分まで面倒を見るから、皆「ガオちゃん」に頼っているふしがあった。
(『ろここ通信』86号 2013.11 より)
(6)特技は料理!
今でこそ育メンだとか主夫などという言葉も生まれ、男子も厨房に入らざるを得ない(?)時代になったが、氏の年代では「男の料理」というと、一般的には少数派だろう。それも、道具に凝って、手のかかる料理をシェフさながらに、というスタイルが大半かと思うが、氏の料理はそれとは一線を画していて、「名前のつく料理はやらない」いわゆる賄いのような、アドリブ料理が真骨頂だった。もちろん、後片付けもちゃんとやる。
私も、氏の料理とコラボした演奏会を何度かご一緒したが、その腕前は本物で、本当に美味しかった。例えば、ザ・キャベツ・コンサート(’93年東京)というのは、キャベツが主体の料理を、前菜から何とデザートまで、凝りに凝って考え、入念に準備をして披露するものだ(ご家族は、試食三昧だったようだが)。整理整頓が趣味の彼らしい合理性には、ドイツ留学時代の生活の知恵も盛り込まれていて、その心のこもった丁寧な仕上がりは、ベテラン主婦のお客様方を唸らせていた。作るプロセスを楽しみ、自分も大いにおいしく食べながら、次々と料理を作る姿は、まさに人生を愉しむ達人、という域であったと思う。
(『ろここ通信』 87号 2014.4 より)
~ Gao Forever! ~ (7)(8)
(7) コラボ仕掛人
Gao氏のプロデューサーとしてのセンス、その個性は、仲間内ばかりでなく、知る人ぞ知る際立ったものだったと思う。そのひとつが、このコラボ仕掛人という顔だ。
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~Gao Forever!~ (9)(10)
(9) 思い出の松本公演
「前半は、モーツァルトとドヴォルザークなどの室内楽、これはオケマンらしく燕尾(服)で。後半はぐっと楽しく、七瀬さんのメドレーを、全員セーター姿でやってみたい。」Gaoさんから依頼された、弦と木管とピアノの編曲作品が、私の読響トップメンバーとのアンサンブルの、事実上デビューコンサートとなった。場所は長野県松本市。サイトウキネン・オーケストラなども本拠地としている伝統ある土地だ。
「味のある先輩」。これは、’99年から読響の木管室内楽にGaoさんの声かけで新たに加わって下さった、クラリネットの四戸世紀(しのへせいき)さんが、氏の訃報に接した時に、哀悼の思いをこめて発したフレーズである。
Gaoさんの同級生である、ファゴットの山田秀男さんよりもひと世代若い彼にとって、氏は学生時代から、魅力ある先輩として映っていたという。四戸さんは、十余年のベルリン生活を経て帰国され、読響で同僚としてGaoさんと再会された。そのおっとりした、気配りの細やかな人柄は、先輩Gaoさんから見ても好ましかったのだと思う。氏は、自分を慕ってくれる教え子や後輩に、惜しみなく愛情を注ぐ人だった。
「東京音大でご一緒できていたらよかった、可愛い弟子たちとの向き合い方を、Gao先生によく聞けばよかった。もっと料理を教わっておけばよかった…」という四戸さん。その65歳記念リサイタルに、先日お邪魔した(3/27)。 20代の初リサイタルと同じ大曲の渾身の演奏に、氏も空から「四戸、元気だなぁ…」と、エールを送っていたに違いない。
◆何処より 叱る声あり 泣きながら 譜面を書くな 音に出るから
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~Gao Forever!~ (11)(12)(13)
(11) 屈指のアイディアマン
(12) おしゃべりコンサート
氏と知り合った当時は、クラシックのスタイルの音楽会で、トークを演奏者が入れるスタイルは、まだ珍しかった。近寄りがたいイメージを少しでも和らげ、音楽の「愉しみ」を伝えたいという意図で自らマイクを持つのだが、氏は中途半端なことが大嫌いな人だった。「ちょっとできる、小賢しいのが一番ダメだね」「あれはダメ、ファッションだから」というのが口癖だったから、トークを入れるスタイルも、演奏に絶対の自信があってこそ許されること、という確たる信念があった上でのことだった。「聴かせてやる」という態度ではなく、かといって媚びへつらうのではないバランス感覚。音楽は人々の中でどうかかわってゆくべきなのか。それを直に聴衆から学び、共に育ってゆくというスタイル。私もそんな中で鍛えてもらった。まさに、氏の個性が輝くシリーズだったと思っている。
(写真2:読響のおしゃべりコンサート in 入善 チューリップ・コンサート 打ち上げ風景)
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~Gao Forever!~ (14)(最終回)
(14) 幻のビータ・グルメ
「ビータ」というのは、楽器を抱えて移動する演奏旅行のことで、隠語(逆さ言葉)としてよく使われる。本番で最高のパフォーマンスをするのが目的なので、人によって旅のスタイルや好みは違ってくるが、ほぼ全員に共通するのは、行った先々で出会う美味しいものが何よりの楽しみだということ。氏ももちろんそうだった。そのなかで、後々まで語り草となった幻の味が、潮来(茨城県)のナマズ料理である。
茨城県内の演奏会の後、氏の車に3人同乗して帰路についた。「腹へったなぁ~。どこでメシ食う?あれ?山田ちゃん(ファゴット)は寝ちゃったかな?」zzz...「起こすの可哀相だから、もう少し先まで行くか。」
次第に人里離れ、心配な景色になる。zzz..z..?*#! 「あ、起きたか。さてどうしよう、あの店やってるかな?様子見て来てよ。」私が偵察する。「和食のきれいなお店で、値段もお手頃!」
腹ペコの3人が恐る恐る頂いた和風の鯰定食は、新鮮な白身魚のさっぱりした美味の世界。「お、うまい!」「鯰ってこんなにうまいのか!」と歓声を上げつつ平らげた。
それきり、二度とあの味に出会うことも噂を聞くこともなく、あれはきっと幻の味だったんだ、ということになった。
(写真1: 94年秋、紹興酒を仲間で奪い合いながら中華料理を愉しみ、明日の本番への英気を養う。)
(最終回) デンマークに ガオさん あらわる?
いつも元気で早起きで、早朝に届くメールの到着時間が少し遅くなり、あれ?と思い始めた頃、いつも前向きで勢いのいい言葉に珍しく弱気なフレーズが混じり、何度打ち消してもぬぐえなかった不吉な予感。私は氏の病床を見舞うことができぬまま、訃報に接した。そんなことありえない、と抵抗する日々。自分の大切な一部がもぎとられたような痛み。「立ち直れるだろうか」という恐怖と不安…でも、ガオさんは天に上りながら、「どうか悲しまないで」と、私に繰り返し訴えていたのだと思う。
あれから九年。氏の遺してくれたものが、私の中で血となり肉となって、雄弁に語っていることに一番驚いているのは私自身かもしれない。たくさんの方々に助けて頂き、私は、どうにかガオさんに顔向けできるくらいに再生しつつあるのかもしれないと思う。「いのち」というものが本質的に持つ回復力というのは、こういうことかとも思う。
デンマークで、不思議な出会いがあった。あ、何かなつかしい感じ…そう、これは昔ガオさんと出会った時のような…この人はデンマークのガオさんなのかな、という感じがふとよぎった。その人はフルーティストではないけれど、何だか氏が宿っているような…。そんな話を奥様にメールしたら、「デンマークですか?いい所に居ますね。」と返して下さった。
(写真2:このサイトのトップをずっと飾っている画像で、額は読売日響欧州公演のお土産に氏から頂いたエッチング。背景はデンマークのテキスタイル・デザインから。)
◆「只楽」と 刻まれし墓碑 風の舞ふ なつかしき地に 君は眠れり(何度も一緒に演奏会をした新座市にある墓所にて) 【 完 】
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Gao Forever! ~Epilogue~ と初出一覧
Gao Forever! ちょっと長めのエピローグ
2020年11月で、ガオさんこと齊藤賀雄さんが旅立たれてから、ちょうど10年になります。この歳月が短かったのか長かったのか、どちらとも決められない思いが、今あります。
本当にいつもお元気な印象だった氏はきっとご長寿に違いないと予想していた私は、混乱を整理できないまま、渦巻く感情の波にもまれながら、紙媒体のニュースレター『ろここ通信』に、氏の思い出や覚えておきたい大事なことを、無我夢中で書き始めていました。そして8年が経ち、15回の連載を閉じました。まだまだ思い出は尽きないのですが、やはりこの辺で一区切りにすることが、新たな向き合い方へのスタートであるような気がしてきたのです。「そろそろ卒業したら?」なんて声も空から聞こえてくるような気がして。
記事の中にあるように、氏は本当に優しい人で、私とは仕事の上ではかなり近い距離でいろいろな行動を共にしましたが、いさかいのようなことは一度もありませんでした。私がだいぶ年下だということへの配慮もあったとは思いますが、お互いに内心「こいつめ」と思うくらいはあっても、仕事の相方という運命共同体のあり方について、氏とのコンビネーションから学んだものは数え切れず、これらは生涯の宝だと思っています。
実は本編に書けなかったエピソードがあります。氏は時々酒量が過ぎることがあり、活動を始めた初期の頃、ある演奏会の打ち上げで氏がしこたま「トラ」になられたことがありました。私は初めて氏のそういう姿を見て驚いたのでしょう、少し厳しい態度に出てしまったことがありました。今から思うと氏も驚いたのかもしれませんが、少し経ってから仕事の場でお会いした時に、とても寂しそうな表情で「あなたは酔っ払いがきらいなんだ」とポツンと言われたのです。これはしまったと思いました。これは彼が弱さを見せたということだったのだ、いつも強気でカッコイイ「ガオさん」でいることに疲れて、時には羽を伸ばしたくなることもあるのだ…と瞬間悟り、胸が痛みました。当時私も若かったとはいえ、こんなことではダメだと自分の狭量を恥じる思いでした。以後、酒量が進むことがあっても、私は内心ハラハラしながらも見守ることにして、氏も私の顔色をうかがいつつ、マイペースで飲むようなパターンになりました。
こんなに早く旅立ってしまうのなら、もっと優しくしてあげれば良かったと思う時もありますが、こうして死別を悼み、思い出を語り残すことができるような縁に恵まれたことは、考えようによっては最高に幸せなのかもしれないとも思います。
最後に、連載を快諾し応援して下さったご家族に、心からの感謝を捧げます。
ガオさん、本当にありがとうございました。永久に安らかに、Gao Forever!
(2020.11.28 没後十年によせて。)
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(序) 2014.11.9
(1) Gaoさん逝く… 2011.8 (ろここ通信 82号)
(2) アレンジ(編曲)に理解の深かった「ガオさん」 2012.4 (ろここ通信 83号)
(3) いつも強気なアドバイス 2012.11(ろここ通信 84号)
(4) 仲間かくあるべし 2013.4 (ろここ通信 85号)
(5) 趣味は整理整頓 2013.11 (ろここ通信 86号)
(6) 特技は料理! 2014.4 (ろここ通信 87号)
(7) コラボ仕掛人 2014.11 (ろここ通信 88号)
(8) 結城の民話とのコラボ 2015.4 (ろここ通信 89号)
(9) 思い出の松本公演 2015.12 (ろここ通信 90号)
(10) 味のある先輩 2016.4 (ろここ通信 91号)
(11) 屈指のアイディアマン 2016.11 (ろここ通信 92号)
(12) おしゃべりコンサート 2017.7 (ろここ通信 93号)
(13) スキーで音楽談義 2017.12 (ろここ通信 94号)
(14) 幻のビータ・グルメ 2018.8 (ろここ通信 95号)
(最終回) デンマークに ガオさん あらわる? 2019.12 (ろここ通信 97号)
ちょっと長めのエピローグ 2020.11(ろここ通信99号 2021年8月)